2004年08月05日

世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない─夏目漱石「道草」

人生とは、自分にまつわる大小さまざまな問題が、きれいに片付きながら進むものだと無意識ながらに思ってきた。ところがだ。三十路も半ばにさしかかり、心に響き渡るのはこの言葉だ。

<世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。一遍起ったことは何時(いつ)までも続くのさ>

漱石晩年の作品「道草」で、主人公が最後に語ることばである。自我に潜む偽善や欺瞞、理由もない不安など、人間存在を主題にし続けた漱石の、ただ一つの自伝的小説が「道草」だ。すれ違う夫婦生活と、無心に訪れる養父母との葛藤の末、「片付かない」と、苦々しい表情ではき捨てる主人公は、漱石その人にほかならない。

思想家の吉本隆明氏は、現代人が壁にぶちあたった時、漱石ならどう考えるかと思う人は今なお少なくないだろうと、著作の中で語っている。私も何かを思うたびに漱石の小説を開いてきた。しかし、何ひとつ片付かないという人生の実体に気づきつつあるなかで、小説以上にリアルな形で漱石の苦悩に触れてみたいと考えた。

向かったのは、27歳の悩める漱石が座禅を組み、公案に取り組んだ鎌倉・円覚寺。だれでも自由に参加できる「暁天座禅」に加わって、早朝の静寂の中で必死に呼吸を数えて無心になろうと試みた。だが浅薄さゆえなのか、雑念が消えるはずもない。僧侶は言った。「人生の苦悩がそうそう簡単に片付くと思ったら、大間違いです」

その言葉に軽くうちのめされ、「道草」を愛読する心理学者で文化庁長官の河合隼雄氏にことがを求めた。人生は本当に片付きませんかと尋ねると、「そりゃ、片付きっこない。ひと山越えてもその先がある。ぼくはよく相談者にそう言いますよ」。

そうして思いついたのが、「道草」の書き損じの原稿のことだった。漱石は執筆に苦しんで、200枚近くの反故の山を築いたといわれている。その一部が、東北大学の漱石文庫に保管されている。かつてそれを見たことがあるという文学博士の佐藤泰正氏が教えてくれた。

「自分という人間を客観的に分析し、ことばを選びながら、何度も万年筆を振ったのでしょう。あちこちにインクが飛び散って、血しぶきのように見えるんです」

どうあがいても、片付かないのが人生なのか。新緑の仙台へと向かった。

─朝日新聞編集部・浜田奈美
posted by schazzie at 00:00| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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