2005年02月26日

☆水星見つかるかな

水星は太陽の最も近くをまわる惑星。そのため地球から見ても太陽からせいぜい28度(腕を伸ばして、縦にしたこぶしの大きさが約10度)しか離れず、日没直後の西の低い空か、日の出直前の東の低い空でしか見られない。

地動説を唱えたコペルニクスでさえ生涯見ることがなかったと伝えられているほどで、その水星を見つけるには、地平線から離れた高いところにいる時期を選ぶことが大切。

3月13日前後の数日間は、水星が太陽から大きく離れるため、日没直後は観望の好機。西の低い空が開けた場所で、日没の30分ほど後に地平線から約10度の高さを探そう。

水星は1等星より明るい0等級だが、低空で空が明るいため目立たない。でも、このころ周囲には明るい星はないので、間違うことはないだろう。

望遠鏡を向けても、地球の大気による乱れや、小さな惑星(地球の直径の38%)であることなどから、表面模様の観測は簡単ではない。自転周期も、40年前にレーダー観測によってようやく約59日とわかった。

昨年8月に水星探査機メッセンジャーが打ち上げられ、11年には水星の人工衛星になって詳しい調査が始まる。

一方、太陽から最も遠い惑星が冥王星で、今月で発見からちょうど75年。来年1月には初の冥王星探査機も打ち上げられ、接近は15年になる予定。

─(山田陽志郎・科学館勤務)
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2004年12月16日

探偵小説の成り立ち

サー・アーサー・コナン・ドイルが創作した、シャーロック・ホームズの話を、歴史上初の探偵小説と思っている人々がいるが、実は、エドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』が最初の探偵小説である。これは1841年に出版され、1887年に出版されたシャーロック・ホームズ初の物語『緋色の研究』よりもずっと早かった。

ポーの創作した探偵の名はオーギュスト・デュパン。物語の舞台はフランスである。これは、当時フランスが私立探偵のいる唯一の国だったためである。

標準的な長さの(短編でない)探偵小説が出版されたのは、1856年になってからで、ウォーターズの『ある刑事の思い出』というものであった。これは、ウォーターズという実在の警察官の実話のように書かれているが、実は全くのフィクションであり、ウィリアム・ラッセルという作家が書いたものであった。

物語そのものは探偵小説ではないが、小説に登場した最初の架空の探偵は、チャールズ・ディケンズの小説『荒涼館』のバケット警部である。

すでに他のジャンルで有名だった作家による最初の探偵小説は、ウィルキー・コリンズの『月長石』で、この小説の探偵はカフ警部補といい、当時実在した有名な探偵フォリー警視がモデルとなっている。またウィルキー・コリンズは、小説『名無し』で、本の中では重要な人物ではないものの、最初の女性探偵を創作した。
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2004年09月09日

ラフカディオ・ハーン没後100年─異質さで得た幸運と不満

ラフカディオ・ハーンが没して、この9月でちょうど100年が経つ。没後1世紀が経過した今も、ハーンは日本人に愛され、尊敬され、研究されている。しかし、西洋ではその名はほとんど知られていない。わたしは1967年に初めて日本を訪れたが、それまでラフカディオ・ハーンの名前は一度も聞いたことがなかった。

ハーンは1890年に日本にたどり着いて、以後14年間で日本に関する本を11冊書き上げた。日本の奥義や神秘や下位文化(サブカルチャー)へと、ハーンは自然に流れていった。それらを称賛に値する、日本の文化を代表するものとして紹介し続けた。


●日本の近代化に反対

生前のハーンは、日本国内では作家として認知されることはなかったが、西洋ではその日本についての記事が一時期評判になった。しかし、日本が帝国化を強く推し進める流れのなかで、まるでそれに背を向けるかのように理想や極上の美しさや精神的なものばかりを追い求めるハーンの姿勢と考え方に、西洋の読者も徐々に矛盾を感じ始めた。一方、日本人は、自分たちが世界の舞台で新しい役割を演じる上で、何か精神的支えのようなものがほしい、という思いを抱きつつあった。西洋人に疑問視されようとも、日本人はそうした精神的支柱を確かに求めていたわけで、その役を担ってくれるのは、すでに日本について英語で文章を書いているこのラフカディオ・ハーン以外に、一体誰がいたというのだろう?

ハーンは日本を非常に好意的に書いている。特に日本人の習慣や地方の風景や昔話に出てくる不可思議な出来事については、ほとんそ興奮状態で一心不乱に書き綴っている。しかし、同時代の日本を描くときは、基本的にその近代化に反対する。新しい日本にどこか居心地の悪さを感じていたのだろう。「西洋社会の考えに従って国家の近代化を推し進めれば、家族を崩壊させ、社会構造を完全に分離し、さらには倫理制度そのものまで壊滅させてしまうことにもなりかねない。すなわち、国民の生活を完全に打ち壊してしまうのだ」と『日本─一つの試論』にも書いている。

ラフカディオ・ハーンは自分が帰化した日本に徐々に幻滅を抱き始めた。「新時代の」日本人男性は決して好きにはなれなかったし、彼らは退廃的な西洋のやり方を模倣するだけの傲慢なやつらであるとみなした。そして「新時代の日本」で自分がどんな扱いを受けようが、常に不機嫌な態度を示した。ハーンが1903年の4月にロンドン日本協会の創設者アーサー・ダイオシ(Arthur Diosy)に宛てた手紙が最近(1998年)発見されたが、そこにはこんなことが書かれている。「わたしの本のほとんどが大変不利な状況で書かれたものであることは、きっとダイオシ様にはおわかりにならないと思います。わたしは誰にも助けてもらうことなく、ほとんど一人でできる限りのことをしていますし、西洋の文学者はわたしが書いたものを評価してくれます。しかし、日本では完全に無視されます」

ハーンは1903年3月に東京帝国大学講師を解雇されて同大学を退職し、4月に早稲田大学文学部の講師に就任する。しかし、公共制度や社会構造の近代化を推し進める周りの日本人には決して打ち解けることができなかった。


●「親日家」との違いは

ラフカディオ・ハーンは、何のルーツも持たない男だった。ハーンをギリシャ系、アイルランド系の作家として研究するのはまったく意味のないことだし、その存在の重要性をただ歪めるだけである。ハーンは日本を愛していたが、いわゆる親日家ではなかった。親日家というのは、日本人と理想や渇望を分かち合える者だと思う。ハーンの「日本」はハーンだけのものであって、かなり異質だった。

ハーンは日本の民話や昔話を集めて、それが日本の理想だと思い込もうとした。人々が何を渇望しようとも、それがハーンの考える日本の理想と一致しなければ、彼らは間違った方向に導かれている、と考えていたように思う。

ラフカディオ・ハーンは、社会から完全に孤立したアウトサイダーであったが、ついにこの日本で自分の故郷を見つけた。しかし、ハーンは決して一つのところには落ち着けない人間だったし、あまりに陰気で、個人的妄想から抜け出せず、常に周囲や時代に不満を抱いていた。だから自分がこの国で一体どんな幸運を手にしたのか、まるで理解できなかった。ハーンは日本で教師の職を得た。それは明治の時代に人々に尊敬されてやまない職業だった。ハーンはほかの国では決して人間として尊敬されることはなかった。

ハーンがもっと長生きしていれば、自分が小泉八雲として神話的な人物に昇りつめるのを、その目で確認できただろう。古い日本を再生しつつ、それをずっと守りつづけた人物として崇め奉られるのを、その肌で感じることができただろう。

─ロジャー・パルバース(作家)/訳・上杉隼人
(朝日新聞 9/8)
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2004年09月08日

1塩基多型(SNP=スニップ)

遺伝情報の個人差を生み出すDNAの違い。ヒトのDNAは4種類の塩基30億個でできている。塩基配列の差が、姿形や体質など個性の基盤となる。

塩基配列の差のうち、人口の1%以上の頻度で存在するものを「遺伝子多型」と呼び、そのうち1塩基だけの差がSNP。

特定の病気になりやすいかどうかや薬の効き方などをめぐり、個人差を生じる原因として注目されている。
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2004年08月11日

ラフカディオ・ハーン

(1850〜1904)
ギリシャのレフカダ生まれ。アイルランドで幼少期を過ごし、1869年渡米。新聞記者のかたわら、仏文学の翻訳や、南部のクレオールの民話や歌の採集をした。87年には作家生活に入る決意を固め、西インド諸島のマルチニク島へ。

1890年日本に到着。松江、熊本などで英語を教え、94年からは神戸で再び英字新聞記者に。その後、東大、早稲田大に招かれ英文学を教えた。松江で出会った小泉セツと結婚し、日本名を小泉八雲とした。

主な著書に『知られざる日本の面影』、『霊の日本』、『怪談』など。

【没後100年記事】
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2004年08月09日

頭韻詩とスタンザ詩

頭韻(alliteration)とは、詩の強音節が同じ子音で始まること。古英語では詩作の要となる原理だったが、中英語以降では修飾として以上のものではない。対語は脚韻。

スタンザ(stanza)とは、韻律に伴う、詩の基本的な構成単位。散文で言う段落(パラグラフ)に近い。スタンザ形式は長編物語詩にも用いられた。

─(朝日新聞社刊「世界の文学」)


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アーサー王の栄光に取って代わる悲劇

このことはしかし、アーサー王物語の栄光と同時に悲運をも、クローズアップせずにいなかった。物語の主題や細部をあれほどまでにキリスト教神話化され、王も円卓の騎士たちも、あれほど熱心にミサに与り、イエス・キリストの恩寵を請い願いながら、ついには「聖杯」に見捨てられ─およそ「聖杯の神話」それ自体がキリスト教によって正統化されることもないままに─みな非業の死を遂げ、王国は滅亡してしまうからである。

そもそもアーサーという王は、父王ユーサー・ペンゴラゴンが諸侯の一人の妃を犯して生ませた不義密通の子であることが、ジェフリー以来忘れられたことがなかった。イギリスではアングロ・ノルマンを排除した後の中英語の時代に頭韻詩『アーサーの死』、スタンザ詩『アーサーの死』が、そしてマロリーによる集大成『アーサー王の死』(1485)が書かれ、13世紀フランス語の集成《ランスロ=聖杯》のとどめも「アーサー王の死」である。この王の非業の死は、徹頭徹尾、つねに、アーサー王物語のあたかも当然の帰結かのようだったのである。

この悲運は、アーサー王物語に併合されてその一外伝のように扱われることになるトリスタン伝説にも、最後までつきまとっている。王の甥と妃との間のこの悲恋物語は、基本的にこれまた不義密通の物語であり、キリスト教の「十戒」に抵触することは不可避であった。しかもなお、トリスタンとイズーの恋は、不義密通であることをやめぬままで、死に至るまで貫徹されねばならない。そのために物語は、「純愛」「運命」「誓言」「媚薬」「死」といった口実のカードを切り続けて、ついにこれらのカードにより、現代に至るまで、情熱恋愛の神話であり続けている。

「聖杯」と「媚薬」・・・これらは中世神話をつねに生きた身体たらしめている、二つの傷だと言えないだろうか。

─(朝日新聞社刊「世界の文学」)
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アーサー王伝説の成立

アーサー王は実在したか?したとも言えるし、しなかったとも言える。6世紀頃、バドニクスの戦いでサクソン軍を破ったブリトンの将アルテュスの軍功が史書に記されているから実在した、と言えなくもないが、いま多くのアーサー王物語に読まれる冒険や事件はすべて史的根拠のない伝説や虚構であり、従ってそのようなアーサー王は実在しなかったとも言えるからである。

そのようなアーサー王伝説が、12世紀後半から13世紀にかけて、特にフランスで、物語文学として次々に大作・秀作を生み出し、本家本元のイギリスをはじめ周辺諸国に波及したことには、いくつかの必然性がある。

ラテン語を母胎に、今風に言えば一種のクレオールとして成立した中世フランス語・フランス文学は、11世紀までに武勲詩や抒情詩の分野で秀作を生み始めていた。物語文学は12世紀前半に、ギリシャ・ローマの題材を扱った、ラテン語作品を種本とする翻訳・翻案による古代物語群を生んだ後、同世紀後半、ついに自前の題材を採用することによって、ローマ帝国の植民地的な段階を脱し、クレオール的活力を全面的に解き放つに至った。この「ブルターニュの題材」の中核となったのがアーサー王伝説であり、そして代表的主題がトリスタン伝説だったのである。

このなりゆきは、さらに、この時代の政治的・宗教的動向を基盤としている。1066年のノルマン・コンクェストによって、ロンドンの宮廷を中心に着たフランスから南イングランドにまたがるフランス語圏が成立したが、このことは、中世フランス語の一つアングロ・ノルマン語に依る詩人・作家たちに、「ブルターニュの題材」を直に摂取する機会をもたらした。マリ・ド・フランスは耳で聴いたブルトン語の歌物語をフランス語の詩文に書き綴ったと自ら記しているし、アーサー王伝説は、ジェフリー・オブ・モンマスのラテン語の書をヴァースがアングロ・ノルマン語に訳したことによって飛躍的に伝播したのである。

宗教的には、この時代のローマ教会による強力なキリスト教世界拡張の趨勢が、アーサー王伝説をキリスト教神話化したことが挙げられる。クレチアン・ド・トロワの遺作『ペルスヴァルまたは聖杯の物語』(1185頃)はケルト起源・異教的要素を多く残しながらも、その「聖杯」はすでに「オスティー(聖体)」を容れる器とされていた。作者の死により未完のまま遺されたこの長編には、その後多くの散文物語が書かれるが、その過程であたかもアーサー王物語全体が聖杯探索譚化するかのごとき様相を呈する。こうして、もとはブリテンの群雄の一人であったアーサー王は、十字軍の時代を背景に、異教と戦うキリスト教世界の盟主のごとき役割を負わされるに至る。

─(朝日新聞社刊「世界の文学」)
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2004年07月02日

About Robin Hood

Robin Hood is a legendary English hero, the outlaw of Sherwood Forest, whose life was first written about in a cycle of ballads. Robin was probably a nobleman of the twelfth century, who, either from choice or because he was outlawed for debt, chose to live in Sherwood Forest in Nottinghamshire. There he collected around him his band of followers, including Little John, Friar Tuck, Will Scarlet, Maid marian and others.

The legends thet have grown about Robin tell of his skill as an atcher, his generosity to the poor and his courtesy to women and children. He remained true to his king, Richard the Lionheart, who spent many years on the crusades, and during the king's absence Robin stood against the tyranny of the king's brother, John, and his henchman, the Sheriff of Nottingham.

Included here are many of the tales that have made the story of Robin and his companions endearing favourites through the centuries.

("ROBIN HOOD"/Anonymous― Published by Peter Haddock Ltd)
posted by schazzie at 13:28| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | 学問 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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